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リンカーン大統領に会った唯一の日本人 アメリカ人として幕末の日本に帰国

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旅のエスプリ Vol. 18

リンカーン大統領に会った唯一の日本人

生涯のうちで一度でも、アメリカの大統領に謁見できる日本人はそれほど多くはないはずです。しかし、今から150年ほど前、1人の大統領だけでなく、3人の大統領と直接会見した日本人がいたのです。名はジョセフ彦。3人の大統領とは、1853年に会ったピアース、1857年のブキャナン、そして1862年のリンカーンです。幕末から明治にかけて、そして日本とアメリカを数度往復した末、アメリカ人として日本で死んだジョセフ彦とは、一体どのような人物だったのでしょうか?

アメリカ人として幕末の日本に帰国

ジョセフ彦(写真:兵庫県播磨町郷土資料館蔵)ジョセフ彦は播磨(今の兵庫県)の漁師の家に1837年に生まれました。幼名は彦太郎。幼い頃に実父を亡くし、母の再婚相手の浜田の家で暮らした後、13歳の時に今度は母親を亡くしてしまいます。義父はそんな天涯孤独となった彦を励ます目的で、船に乗って江戸見物に連れて行きました。ところが紀伊半島沖で遭難、52日間、彦たちは太平洋上を漂流した末に、アメリカの商船、オークランド号に救出され、1851年にサンフランシスコに到着したのです。

アメリカは当時まだ鎖国状態にあった日本への外交カードに、漂流民たちを使おうと考え、ペリー率いる東インド艦隊に乗船させるために香港に向かわせます。ところが待ち合わせの香港で待てど暮らせどペリーの艦隊はやって来ません。しかも、待っている間に力松という元漂流民に聞いた話から、自分たちが外交カードに使われる可能性があることを彦たちは察知するのです。自分たちの存在が日本に不利に働くのでは母国に申し訳が立たないと、彦はアメリカに引き返すことを選択したのでした。

サンフランシスコに戻った彦は税関長サンダースに可愛がられ、彼に連れられてアメリカ大陸横断の旅に出かけます。そして、ワシントンDCでは時の大統領ピアースに面会を許されるのです。54年にはクリスチャンの洗礼を受け、名前をジョセフ彦と改めます。そして、開国した日本に赴任する駐日大使ハリスと共に祖国へ帰国するチャンスが巡ってきます。しかし、当時の日本ではキリシタンが弾圧されていたため、彦は日本人ではなく、アメリカ国籍を取得し、アメリカ人として日本上陸を果たしたのでした。

9年ぶりに帰国した彦の目に映った日本は、文明が進んだ西洋社会とはあまりにもかけ離れた状態でした。横浜にあった米国領事館で通訳として働きながら、彦は日本の発展に貢献したいと強く望むようになりました。しかし、当時の日本には尊王攘夷の嵐が吹き荒れており、日本人でありながら西洋の身なりでアメリカ人として振る舞う彦は、攘夷の浪士たちに命を狙われるようになります。そして1861年、後ろ髪を引かれながら、彦はアメリカへと引き返したのでした。

日本人の開眼願い、無料の新聞創刊

アメリカに戻った彦が、リンカーン大統領に謁見を果たしたのは1862年のことでした。リンカーンからは直接、彼が熱心に説いていた民主主義の理念を伝授されたと言われています。そしてジョセフ彦は、リンカーン大統領に会って握手をした、ただ1人の日本人として記録されています。

同年10月、彼は再び日本の土を踏み、横浜の外国人居住地で商社を立ち上げます。ニューヨークタイムズを購読していた彦は、自分が会った大統領が南北戦争の激戦地ゲティスバーグで「人民の人民による人民のための政治」と発言した、後に伝説となったスピーチを新聞紙上で目にするのです。そして、その新聞記事がアメリカ国民を突き動かした事実に衝撃を受け、日本でも新聞を発刊したいと思うようになります。

日本初の「海外新聞」(写真:兵庫県播磨町郷土資料館蔵)

時は幕末。幕府の監視によって取材活動もままならない中、彼は「真実を正しく民衆に伝える、そこに感動が生まれる」との信念のもと、1864年「新聞誌」という手書きの新聞を創刊させます。翌年には「海外新聞」と改名し、その後月に2回、百部ずつ発行するようになりました。内容は外国の珍しい話題や事件、経済情報、アメリカの歴史、そして在日外国人が経営するビジネスの広告などで構成されていました。あくまでも営利目的でなく、日本人の目を海外に向けるという啓蒙が新聞発行の目的であったため、無料配布にこだわりました。そして、その主旨に賛同してくれるスポンサーの援助で新聞は継続していました。

ワシントンDCのリンカーンメモリアルにあるリンカーン像ところが、1866年、居留地に火災が発生し、スポンサーにも莫大な被害が生じると、新聞は廃刊に追い込まれます。新聞を発行していたのは2年ほど、26号で海外新聞は日本初の民間新聞としての幕を閉じました。1870年、横浜で創刊された横浜毎日新聞のスタイルは、明らかに海外新聞を受け継ぐものでした。

新聞廃刊と同時に長崎へ転居した彦のもとに、1867年、木戸孝充と伊藤博文が訪ねてきます。その際に彦はリンカーン直伝の民主政治の理念を、彼らに熱心に説いたと言われています。つまり、彦はリンカーンの「人民の、人民による、人民のための政治」という考えを、自分が媒介となって明治政府へ引き継いだのです。

若くして3人のアメリカ大統領に会った経験を日本に伝え、アメリカに帰化したために日本では「アメ彦」と呼ばれ、日本人を開眼させるために新聞の父として日本にジャーナリズムを誕生させたジョセフ彦は、1897年、東京で60年の生涯を終えました。

日本人女性と結婚もして再び日本国籍に戻ることを希望していたそうですが、それが叶うことはなく、彼は青山霊園外国人墓地に眠っています。その墓石には「浄世夫(ジョセフ)彦之墓」と刻まれています。

彦のように現職のアメリカ大統領に会える機会は限られていますが、せめてアメリカ国内に点在する歴代大統領の足跡を訪ねる旅に出てみませんか?

ボストンにある
ジョン・F・ケネディーライブラリー
(John F. Kennedy Presidential Library and Museum)
ボストンに行ったら訪れてみたい『ジョン・F・ケネディー・ライブラリー』ロサンゼルス郊外シミバレーにある
ロナルド・レーガン・ライブラリー
(Ronald Reagan Presidential Foundation and Library)
シミバレーにある『レーガン大統領ライブラリー』本物のエアー・フォース・ワンも展示ロサンゼルス郊外ヨルバリンダにある
リチャード・ニクソン・ライブラリー
(Richard Nixon Library & Museum)
ロサンゼルス郊外ヨルバリンダにある『リチャード・ニクソン・ライブラリー』ニューヨーク郊外ハイドパークにある
フランクリン・D・ルーズベルト邸
(Home of Franklin D. Roosevelt)
フランクリン.D.ルーズベルト邸を訪ねて『FDRの知られざる素顔を垣間見る』ニューヨーク・ロングアイランド サガモアヒルにある
サマーホワイトハウス セオドア・ルーズベルト邸
(Theodore Roosevelt’s Home)
セオドア・ルーズベルト邸サマー・ホワイトハウス サガモアヒル

【資料提供】
兵庫県播磨町郷土資料館
〒675-0182
兵庫県加古郡播磨町東本荘1-5-30
電話番号:079-435-0355
www.town.harima.lg.jp

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関 克久