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チョコレートとお蚕がつないだ日伊の縁 イタリア使節が見た幕末の日本はいかに?

目からウロコのトラベル・コラム「旅のエスプリ」イタリア

目からウロコのトラベル・コラム「旅のエスプリ」

旅のエスプリ Vol. 25

チョコとお蚕がつないだ日伊の縁 イタリア使節が見た幕末の日本とは?

2014年6月、群馬県にある富岡製糸場と絹産業遺産群が、世界遺産に正式登録されました。富岡製糸場には多くの観光客が押し寄せ、今まさに「時の場所」となっています。富岡製糸場は、皆さんもご存知のように、日本初の本格的な器械製糸の工場であり、明治時代の日本の近代化を牽引する先駆けとなった存在です。今も残るノスタルジックな赤煉瓦の建物が歴史と風格を感じさせます。

蚕の卵を求めて 日本の扉を叩く

さて、この日本の絹産業と、今回紹介する日本とイタリアの国交樹立には実は深い関係があるのです。前回、「ハイジの国」スイスと日本が国交樹立150年を迎えると書きましたが、スイスのすぐ南に位置するイタリアに対して日本が門戸を開いたのは1866年、つまりスイスに2年遅れて国交条約が締結されています。イタリアが日本に国交を迫った目的とは? ずばり、蚕種(蚕の卵)の調達でした。

毛織物業と金融業で栄えたフィレンツェ

1850年代終わりから1860年代はじめにかけて、ヨーロッパで流行した悪疫のせいで、主に北イタリアで行われていた現地の養蚕は壊滅的な打撃を受けました。イタリアより早く日本と国交を樹立していたイギリスやフランスが日本から蚕種を購入していることを知ったイタリアは、自国の養蚕業の存続のため、是が非でも日本との関係を持ちたいと願うようになります。

ナポリの南、ソレントからサレルノに広がるアマルフィ海岸そこで日本に赴く使節として白羽の矢が立ったのが、軍人のヴィットリオ・アルミニヨンでした。アルミニヨンは日本上陸に当たり、パリに滞在していた柴田日向守を訪れ、根回しを行いました。

彼はイタリアが数世紀にわたりヨーロッパの中でも学術文芸面のリーダーであるのと同じく、日本もまたアジアにおいて文化文明を牽引していると述べました。当時、日本を訪れたフランス人らの影響で、ヨーロッパでは日本の浮世絵をはじめとする文化を賞賛する「ジャポニズム」が巻き起こっていたことも、アルミニヨンの言葉を柴田にストレートに伝えるのに役立ったようです。

1866年、アルミニヨンはマジェンタ号の艦長として日本に上陸し、当時、長州征伐に忙殺されていた幕府を相手に根気よく交渉を続けて国交を開くことに成功しました。それを機に、イタリア商人たちは横浜を訪れ、日本の蚕種を仕入れることができるようになったのです。日本の代表的な蚕種製造業者の田島家には当時のイタリア商人との取引について記した記録も残されています。

そして、群馬県伊勢崎市にある田島家当主の弥平旧宅は、富岡製糸場と共に世界遺産を形成する遺産群に正式に登録されています。また、近代養蚕農家の原型として、国の史跡にも指定されています。

布団、襖、畳 興味深い生活様式を描写

アルミニヨンは帰国後の1869年、日本見聞記を出版しました。この著書は、当時の日本の風俗をアルミニヨンが興味深く、そして実に客観的に眺めた上で記述されていることがわかります。たとえば、彼が横浜や江戸に上陸する前に訪れた熱海で見かけた一般人の住居と暮らしぶりについては、

「どの家も質素だが、気のきいた形のよい作り。日本人は綿の入った大きな布団にくるまって眠り、朝になると、これをたたんで部屋の隅に重ねておく。部屋と部屋は溝を滑る紙ばりの襖で仕切られ、必要に応じて、この仕切りを取り払うことで部屋の広さを自由に変えられる。家の中の敷物は、見事な技術で編んだ竹でできている。厚さ2、3インチで、非常に弾力がある。その何枚かを組み合わせれば部屋の広さにぴったり合う」

とあります。彼が竹の敷物だと描写したものは、い草を編んだ畳に違いないでしょうが、それにしても、観察力の鋭さに感心させられます。

日本の家屋(フィラデルフィア美術館)

また、面白いのが、日本人と西洋人の洟のかみ方に着目していることです。「日本人は洟をかむにもハンカチではなくて紙を使う。誰もが懐中にこういう紙を何枚か持っていて、一度使えば捨ててしまう」。これなどは、まさに150年後の現代にも通じる文化ギャップです。

幕末の日本人がまさかポケットティッシュを持っていたはずはありませんが、今でも洟をかんだ後ティッシュを捨ててしまう日本人に対して、洟をかむたびにポケットからハンカチを取り出して何度も使う西欧人…。日本人が西洋人の影響を受けることなく、いまだに「紙で洟をかみ続けている」ことは、日本人の普遍的な習慣と言えそうです。

ヴェローナのローマ時代の屋外闘技場アレーナ

そして、アルミニヨンが日本人を非常に好意的な目で見ていたのが最もわかる記述が、マジェンタ号を神奈川奉行早川能登守が通訳2名と大目付を従えて訪れた様子を伝えたものです。アルミニヨンが差し出したトリノ産のチョコレートを、早川らはその場で口にせず、紙に包んで懐中にしまったとあります。そのことを、アルミニヨンは、彼らは自宅に帰ってからじっくりと賞味して、我々のことをゆっくりと思い出すつもりなのだと述懐しています。

「我々などは素晴らしいごちそうに預かっても、帰宅した時,思い出すものと言えば胃のもたれだけ」と、西洋人のあけすけな態度と、日本人の奥ゆかしさを対比することで、日本人に敬意を表しているように思えます。この早川との会見の翌日、神奈川の丘に、イタリア国旗が日本で初めて掲揚されました。

アルベルベッロにあるユニークな家 トゥルッリ家屋

150年前のイタリア人が記した日本見聞記に登場する日本人には、礼儀、遠慮、謙虚な姿勢、そして誇りといったものが見てとれます。日本人が本来備えていた優れた国民性を、現代の日本人の多くが残念ながら失ってしまったように思えるのは私だけでしょうか?

歴史と芸術の国であり、世界一の世界遺産の数を誇り、ファッションは超一流、料理も美味しいと我々日本人を魅了し続けるイタリア、両国の関係を最初に形作ったのは日本を正当に評価し、そして我慢強く交渉に当たったアルミニヨンと使節団があってこそ。この本を読むと、益々イタリアが好きになること、請け合いです。

【参考文献】
「イタリア使節の幕末見聞記」新人物往来社刊

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関 克久