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19世紀後期に中世の城ノイシュヴァンシュタインを建設  騎士伝説とワーグナーへの傾倒の末に…

目からウロコのトラベル・コラム「旅のエスプリ」ドイツ

目からウロコのトラベル・コラム「旅のエスプリ」

旅のエスプリ Vol. 26

19世紀後期に中世の城ノイシュヴァンシュタインを建設 騎士伝説とワーグナーへの傾倒の末に…

湖と山々を背後に従えた荘厳で華麗なノイシュヴァンシュタイン城、その写真を目にしたことがある人は多いでしょう。ドイツ、ロマンチック街道の終点に位置し、毎年、多くの観光客が訪ねる人気スポットです。その外観から中世に建設された城だと思うかもしれませんが、実際は19世紀後半に建設が開始されており、石造りではなく鉄骨の建築物です。

ルートヴィヒ2世の肖像画しかも、資金難と施主であったバイエルンの王が退位に追い込まれたため、現在まで未完成のままとなっています。どうして国王の資金が枯渇したのか、なぜ退位に追い込まれたのか、そして根本的な疑問として、なぜ時代錯誤とも言える様式の城を建築しようとしたのか……その謎を解くためにバイエルン国王、ルートヴィヒ2世の生涯を振り返ってみることにしましょう。

現実を直視することなく 夢の世界に閉じこもる若き王

ルートヴィヒ2世は、1845年、バイエルン王太子マクシミリアンと王太子妃マリーの長男として、ミュンヘンのニュンフェンブルグ城で生まれました。幼いルートヴィヒは3歳下の弟オットーと遊ぶ時以外は、中世の騎士伝説を読みふけって過ごしました。12歳でリヒャルト・ワーグナーの歌劇「ローエングリン」の脚本を読むと、彼はたちまち、10世紀の白馬に乗った騎士ローエングリンの虜となりました。

やがて1864年に王位に就いたルートヴィヒを、国民は熱狂的に迎えました。当時、既に肖像画ではなく、写真でルートヴィヒの姿が残されています。それを見る限り、国民が熱狂するのも納得するほどの美しさを、若き王は誇っていたのです。

しかし、即位した時から、王の心が国や国民に向かったことはありませんでした。彼は自分の好きな騎士伝説の世界に浸り、中世を歌劇で再現したワーグナーに傾倒してパトロンを申し出ます。散財により借金を抱えていたワーグナーに、国王は金銭的な援助を続け、作曲家の生み出す作品を「我々の作品」と呼ぶようになりました。

王がワーグナー以外に親しかったのは、オーストリア皇后エリザーベトです。自分と同じヴィッテルスバッハ家の出身のエリザーベトとは、芸術と自由を愛する気質が共通しており、長い時間を共に過ごす関係でした。エリザーベトは自分の妹ゾフィーをルートヴィヒの妃にと推薦しますが、女性に関心を抱けなかった国王は、何度もゾフィーとの挙式を延期し、破談となってしまいます。

ルートヴィヒ2世が生まれたニュンフェンブルグ城

「私の城は神聖な場所」 城建設で財政破綻、廃位に

ワーグナーはやがて、好き嫌いと喜怒哀楽の激しい国王から距離を置くようになります。国王の周囲にとっては、ワーグナーに湯水のように王室費を使い続けたルートヴィヒの姿勢を正す絶好の機会に思えました。しかし、国王は次に、中世の伝説に登場する城を具現化することに情熱を傾け始めるのです。

しかも、冒頭のノイシュヴァンシュタイン城だけでなく、トリアノン宮殿を模したリンダーホフ城、ベルサイユ宮殿のコピーと言われているヘレンキームゼー城と何と3つの城の建築に没頭し始めます。

ノイシュヴァンシュタイン城

ルートヴィヒの建築熱は、祖父ルートヴィヒ一世とも共通するものでしたが、目的が異なりました。ミュンヘン市を一新した祖父は「国民のため」という公的な理由で建築に情熱を傾けました。一方の二世にとっての城の建築は、ローエングリンやタンホイザーが住むにふさわしい場所を再現することが目的でした。

「私の城は神聖な場所であり、民衆がみだりに見物するものではない」

というように、国民に城を公開することは望んでもいませんでした。3つの城の中でも一番有名なノイシュヴァンシュタイン城は、ルートヴィヒの注文により、外観はロマネスクとビザンチン様式、内部は後期ゴシック様式という、折衷式のデザインとなり、専門家から見ると全体として調和に欠けると言われています。ただし、何と言われようと国王には関係のないことでした。彼は自分のためにだけ城を造り続けていたのですから。

トリアノン宮殿を模したと言われるリンダーホフ城

しかし、贅を極めた城を建設した結果、王室の財政は悪化の一途を辿り、王はヨーロッパ中の王族に借金を申し込みますが、ことごとく断られます。国王の暴走を止めるため、遂に首相のルッツらがルートヴィヒの精神鑑定を行い、「禁治産者」の烙印を押して廃位を迫りました。

ロマンチック街道のドイツ最古の街のひとつアウグスブルグそして、1886年6月12日、ルートヴィヒはベルグ城に軟禁されます。しかし、翌日、シュタルンベルグ湖で、主治医と共に水死体となって発見されます。享年40歳でした。若い頃、その美貌をもてはやされた彼は、世間を顧みず自分の世界に閉じこもった挙げ句、美貌の王子の面影をもはや留めてはいませんでした。

死因に関しては今も謎のままです。しかし、世をはかなみ自殺を試みようとしたルートヴィヒが、それを止めた主治医を先に殺害し、続いて自分が自殺したという説が最も有力となっています。

さて、「自分が死んだら、他者には見せず、足を踏み入れさせずに破壊するように」と言い残していた彼の城は、皮肉なことに、百数十年以上後の現在も、観光客のために公開されています。

城の様子は、昨年公開されたドイツ映画「ルートヴィヒ」でも見ることができますが、それ以上に必見なのはイタリアの巨匠ルキノ・ヴィスコンティ監督の1972年製作の映画「ルードウィヒ/神々の黄昏」です。この映画では、城の地下に作られた人口の洞窟の湖に浮かべた貝殻の形をした船など、ルートヴィヒの「夢の世界」が描かれています。映画を見るまでもなく、本物の城を訪ねてみてはいかがでしょう。バイエルンの狂王の描いた夢の世界が、目前に繰り広げられるはずです。

【参考文献】
白鳥王の夢と真実 ルートヴィヒII世」新書館刊

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関 克久