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ニューヨーク、ワシントン広場の平和凱旋門の共作者、ロダンの誘いを断った彫塑家、川村吾蔵とは? 

目からウロコのトラベル・コラム「旅のエスプリ」ニューヨーク

目からウロコのトラベル・コラム「旅のエスプリ」

旅のエスプリ Vol. 36

ニューヨーク、ワシントン広場の平和凱旋門の共作者 ロダンの誘いを断った彫塑家、川村吾蔵とは?

ニューヨーク、マンハッタン5番街の南端に位置するワシントンスクエア。NYを訪れた人なら、市民の憩いの場として親しまれている、この小さな公園に行ったことがあるのではないでしょうか。そして、ワシントンスクエアのシンボルが平和凱旋門です。パリの凱旋門のサイズには及びませんが、平和凱旋門も凝った彫刻が施された芸術作品として高い評価を受けています。

ニューヨーク五番街の基点にある平和凱旋門

ワシントンスクエアは映画のロケにも数多く使われており、数年前のウィル・スミス主演の「アイアム・レジェンド」では、主人公がこの公園の近くに住んでいるという設定で凱旋門が登場します。

平和凱旋門の共作者、川村吾蔵が名前を残せなかった理由

さて、1918年、今から1世紀近く前に完成した平和凱旋門が、日本人の作品だということを知っている人はあまり多くないでしょう。作者の名前を聞いても「あの川村吾蔵」だと腑に落ちる人がどれだけいるでしょうか。吾蔵はアメリカ人彫刻家のフレデリック・W・マクニモスと共作で、数多くの作品をアメリカ国内、その多くを公共の建築物の敷地内に残しています。彼は、アメリカ大統領の胸像も手がけた、数少ない国際的な日本人彫塑家なのです。

平和凱旋門のワシントン像

(写真上:門の左右にジョージ・ワシントンの像がありますが、司令官のワシントン像はHerman MacNail作、大統領像はAlexander S Calder作でワシントンアーチ完成後に制作されたものです。)

それでは何故、彼の名前は知られていないのでしょうか? それは、共作にも関わらず、作品がマクニモスのみの名前で発表されているからです。当時のアメリカ社会には日本人差別が存在、アメリカ市民権を持たなかった吾蔵が、作品に名前を記すことは許されませんでした。

しかし、芸術界の人々は彼に一目置いていましたし、何より、マクニモスのスタジオで働いていたロイス・ジョンソンも「吾蔵のエンラージングミシン(小さな彫像を巨大化するための測定器)があって初めてマクニモスの作品が可能となった」と証言しています。

ニューヨーク市立図書館にある美と哲学の像

川村吾蔵は1884年、長野県佐久に生まれました。早くに両親を亡くした彼は、習字や工作、何より絵が得意な少年でした。将来は芸術家になりたいと夢見て、まず東京へ、そして20歳の時にアメリカへと渡ります。

ボストンのデッサンスクールを経て、ニューヨークのナショナルアカデミーデザインスクールに入学、そこで本格的に美術を学びました。ちなみにこの美術学校、創立者はモールス信号を発明したことで知られるサミュエル・モーリスでした。彼は発明で得た大金を、若い人々の才能に投資したのです。

吾蔵はさらにペーン女史のアトリエで助手を務めた後、1910年、女史からの紹介状を頼りにパリで活動していたマクモニスのもとへ向かいました。吾蔵の才能をすぐに見抜いたマクモニスに迎えられ、さらに名門芸術学校、エコールドボザールに一度の入試で合格、特待生として入学を果たします。

エコールドボザールに通いながら、マクモニスのアトリエで働いていた日本人の噂は、オーギュスト・ロダンの耳にも届きました。「考える人」をはじめとする数多くの名作で知られるロダンです。マクモニス吾蔵が正式な契約関係にないことを知ったロダンは、吾蔵に「大金を用意するから、自分の助手になってほしい」とオファーします。

悩む吾蔵は、師匠のマクモニスに「ゴゾー、私にはロダンほどの金はない。それでも一緒に働いてくれないか」と言われ、マクモニスのもとに残ることを決断するのです。マクモニス吾蔵の間に契約はなくても、二人は真の師弟関係を結んでいたのでしょう。その後もロダンは諦めきれずに何度も吾蔵に声をかけましたが、そのたびに丁重に断り続けたそうです。

芸術家を阻んだ悪妻と戦争

マクニモス吾蔵の共同作品として知られているのは、前述のワシントンスクエア平和凱旋門以外に、ニューヨーク市立図書館の「美と哲学」、ニューヨーク市庁舎の「シビック・バーチュー」(現在はグリーンウッド墓地に移設)、プリンストン大学キャンパス内の「ジョージ・ワシントン戦勝記念碑」、ワシントンDCの最高裁判所の玄関脇の巨大な座像「ジャスティス」などがあります。

「シビック・バーチュー」の制作費としてニューヨーク市がマクニモスに支払ったのは200万ドルという大金でしたが、彼はそれを吾蔵ともう一人の助手のために三分割しました。こうして名前が表に出ることはありませんでしたが、吾蔵の資産と美術界における「知る人ぞ知る」存在としての高い評価は膨らんでいったのです。また、当時ニューヨークにいた野口英世高峰譲吉とも親しく交流し、高峰のデスマスクも吾蔵が手がけています。

グリーンウッド墓地に移設されたシビック・バーチュー像

しかし、そのままアメリカでの優雅な生活が続くことはなく、彼の前に2つの敵が立ちはだかりました。

最初の敵は、パリから戻ったニューヨークで一緒に生活していたフランス人の妻ジーネでした。彼女に拘束され、モデルとの関係を嫉妬され、さらに浮気されて悪妻に振り回された挙げ句、優秀な弁護士を雇ったジーネからは離婚の際に財産のほとんどを持ち去られてしまいました。

その後まもなく日本人女性しおりと再婚した吾蔵でしたが、1945年、日米の関係悪化を把握していた駐日大使より帰国を促され、彼は妻と共に数十年ぶりに日本に引き揚げました。つまり、戦争が吾蔵のアメリカ生活にとっての第二の敵だったのです。

プリンストン大学にあるジョージ・ワシントン戦勝記念碑

帰国後はしばらく東京で活動を続けましたが、故郷に疎開すると、「英語を話すスパイ」として人々から疑いの目を向けられるようになります。彼の生活は一転、野菜作りに携わり、そのまま静かな老後を過ごすかに思えました。

ところが、進駐軍が吾蔵の存在を聞きつけ、通訳に雇いたいと連絡してきたのをきっかけに、最後はマッカーサー元帥の胸像を依頼されるまでに彫塑家として復活を果たしました。しかし、胃がんにおかされた吾蔵は、その胸像の完成を見ることなく横浜で静かな最後を遂げました。享年66歳でした。

名前を知られることのなかった彫塑家、川村吾蔵の彫刻モニュメントを、米国各地で次に目にする機会があれば、彼の波乱に満ちた生涯に思いを馳せてみてください。

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関 克久