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旅のエスプリ

日本人留学生第一号はやはり、あの人! そしてその人はフリーメイソンだったのか?  猟師から武士へ、そして英語教師へ

 

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旅のエスプリ Vol.4
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日本人留学生第一号はやはり、あの人!そしてその人はフリーメイソンだったのか?
 
主席だったジョン万次郎
 
前回は、有名なジョン万次郎よりも先にアメリカ、さらにイギリスにまで上陸していた現在の愛知県出身の音吉について取り上げました。上海やシンガポールで生活し、イギリス人女性とも国際結婚をした音吉は、「国際派日本人の第一号」と言って差し支えないでしょう。しかし、ジョン万次郎も「第一号」の称号に値します。彼がアメリカに上陸したのは音吉に10年遅れましたが、正式にアメリカで学校に通った万次郎こそ、「日本人留学生第一号」なのです。
万次郎は1827年、現在の高知県土佐清水市で生まれました。幼い時に父を亡くしていた彼は、一家の稼ぎ手として14歳にして漁船で働き始めます。そして、1841年1月、漁をしている時に嵐に遭い、船は伊豆諸島の鳥島に漂着するのです。そこで、ホイットフィールド船長率いる捕鯨船「ジョン・ハウランド号」によって救出されます。万次郎以外の仲間をハワイで降ろした船は、母港であるアメリカ東海岸ニューベッドフォードに上陸します。1843年5月6日のことでした。16歳になっていた万次郎は、船長夫婦に引き取られ、オックスフォード学校とバーレットアカデミーに在籍、英語、数学、測量、航海術などを学び、首席にまで登り詰めます。日本人留学生第一号は、実に優秀な学生でもあったのです。
万次郎が最初に通った「オールド・ストーン・スクール」。日本の寺子屋のような1部屋だけの教室で下級生も上級生も一緒になって、読み、書きを学んだ。
万次郎が通った船長の家から1キロほど離れたところにあるユニタリアン教会。(現在はノースウェスト海洋学専門養成所学院として世界中から学生を集めている。)
万次郎は捕鯨船フランクリン号の船長に誘われ、再び海に出ます。3年4カ月もの航海を終え、20歳でニューベッドフォードに帰港しますが、次に向かったのはゴールドラッシュに沸くカリフォルニアでした。目的は日本に帰国するための資金を稼ぐこと。万次郎は金鉱で70日間働き、700ドルを手にします。当時の水夫の月給が17ドルだったことを考えると、まさに一攫千金でした。その資金を携えてサンフランシスコを出港、ハワイで仲間と合流してから捕鯨船に乗り込み、その後、琉球の沖合にボートで漂着したのは、1851年のことでした。
漁師から武士へ、そして英語教授へ
 
1954年3月8日横浜で行われた 日本人アメリカ人応接の様子
鎖国状態にあった日本に帰国した万次郎は、1年半もの長期間にわたる尋問を受けました。そして土佐藩に戻ると、漁師出身にもかかわらず武士のステータスを与えられ、藩の学校で英語を指導する教授に就任するのです。教え子の中には三菱の創始者である岩崎弥太郎がいました。1853年、ペリー率いる黒船が浦賀に来航。当時の日本でアメリカの事情を知る者は万次郎のみだったため、幕府によって江戸に招聘されます。54年に再度日本を訪れたペリーは改めて日本に開国を迫り、日米和親条約が締結されるのです。この締結は万次郎の働きが実を結んだ結果でした。アメリカ第30代大統領クーリッジは「24歳のジョンマン(アメリカでの通称)が我が国の本当の姿を当時の日本の首脳部に理解させていたからこそ、ペリーはあのような友好的な扱いを受けることができた」と、万次郎の功績を絶賛しました。

東京台東区池野端の旧岩崎弥太郎邸

 
1860年、万次郎は遣米使節団の一人として、勝海舟や福沢諭吉と共に咸臨丸でアメリカに渡り、通訳として活躍します。帰国後は土佐藩や薩摩藩で英語や航海術を指導し、1869年には明治政府が開学した開成学校(後の東京大学)の英語教授に任命されました。晩年は政界への誘いもあったようですが、それを固辞し、教育者として東京で72歳の人生を終えました。
 
フリーメイソンだったのか?
 
さて、万次郎には「フリーメイソンだったのではないか」との説もまことしやかに囁かされています。フリーメイソンとは選ばれた人しか入会が許されない秘密結社です。フリーメイソン説を唱える人たちは、漁師出身の少年が武士にまで格上げされたり、アメリカが日本に開国を迫るタイミングで日米を行き来したりしたことがその根拠だと言います。それは偶然ではなくアメリカとフリーメイソンによる仕掛けだったのだ、と。また、ゴールドラッシュで帰国費用を捻出したのではなく、組織から資金提供を受けたという説もあります。そして何を隠そう、黒船のペリー自身が代々続くフリーメイソンの一員でした。
ジョン万次郎
マサチューセッツ州フェアへブンという小さな漁港の街にあるホイットフィールド=万次郎友好記念館
高知県足摺岬に立つ万次郎の銅像は、その手にフリーメイソンの象徴である直角定規とコンパスを持っています。これこそが彼がフリーメイソンだったことの証明ではないか、と…。しかし、真実は謎に包まれたまま。彼がいなければ日本が鎖国を解かなかったかもしれず、福沢諭吉はアメリカに行くことはなく、そうなると慶応大学も存在せず、岩崎が創始した三菱財閥もなかったかもしれない…。歴史の歯車を大きく転換させたのが万次郎だったことに違いはありません。彼が船長と共に暮らしたマサチューセッツ州ニューヘブンには記念館もあり、さまざまな資料が展示されています。そこを訪ねて、ミステリアスな万次郎の実像に少しでも触れてみてはいかがでしょうか?
 

【参照サイト】
Whitfield-Manjiro Friendship Society
11 Cherry Street, Fairhaven, MA 02719
http://manjiro1.tripod.com/

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関 克久

関 克久

Sales & Marketing Div., GM at JTB USA Inc.,
旅行のプロデュースに携わって30年。趣味は写真。「百聞は一旅に如かず」旅に出て初めてわかるのは、実は故郷の良さなのかも知れません。旅は百薬の長がモットーです。
関 克久

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