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ジョン万次郎記念館 「黒船から開国」陰の立役者ジョン万次郎

ジョン万次郎と言えば、日本の開国と日米友好に多大な功績を残した人として、日本人なら、たぶん知らない人はいないでしょう。マサチューセッツ州フェアへブンという、ボストンから南西に車で約1時間、大西洋岸にある人口6000人程の小さな漁港の街に、ホイットフィールド=万次郎友好記念館が2009年5月7日に開館しました。5月7日は、今から約167年前の1843年にジョン万次郎が初めてフェアへブンに来た日で今でも、この日にはジョン万次郎の生まれ故郷の土佐清水から多くの方が訪れ友好を深めているそうです。

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この記念館は、元々ジョン万次郎を助けた捕鯨船「ジョン・ハウランド号」の船長ウィリアム・ホイットフィールドの家で、 老朽化した家が売りに出されたのを聞いた聖路加国際病院の日野原重明理事長が発起人となり、寄付金を募り、修復がなされ開館にいたったとの事。

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ドアを入ると右側に客室があり、暖炉の横にホイットフィールド船長と万次郎の写真、難破して鳥島で生き延びていた万次郎を救助する様子などを描いた絵が展示されています。

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万次郎が寝泊りしていた部屋は3階の部屋。海の見える部屋にしたのはホームシックにならないようにとの配慮からだったそうです。万次郎が帰国した後に建物全体を持ち上げて1階を追加したそうで、当時の彼の部屋は2階だったとの事。1870年に再びニューヨークを訪れ、この家でホイットフィールド船長との再会を果たした際に家が大きくなったことに驚いたそうです。

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ここは友好記念館なので博物館のように多くの展示品はありません。その代わり、館長さんのジェラルド・P・ルーニーさんが、万次郎がどんな生活をしていたのかなどを詳しく説明してくれます。(館長といってもボランティアーだそうです。)

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ここで、ジョン万次郎の経歴を簡単にご紹介します。

 

1827年1月23日 土佐国中の浜(高知県土佐清水市)で生まれる。9歳で5人の子供を残し父親が他界。兄が病弱なため14歳の時に一家を支えるため宇佐浦の漁船で働き始める。

1839年10月31日 ホイットフィールド船長率いる捕鯨船「ジョン・ハウランド号」がニューベッドフォード(フェアへブンの隣町)から出港。ホイットフィールド船長の航海日誌にその旨が書かれています。

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1841年1月27日 万次郎他5人が8メートルほどの船で漁をしていると突然の嵐に逢う。櫓も折れてしまい水も食料もつき6日間漂流し、幸運にも黒潮の大蛇行に乗り、四国の足摺岬から南東750キロメートル離れた伊豆諸島鳥島に漂着。 アホウドリを生で食べて143日間生き延びた。ちなみに鳥島に漂着したのは万次郎達が初めてではなく、島にはお墓や古い井戸もあったそうで中には19年間生き延びたいう記録もある。

1841年6月27日(日曜日)の航海日誌から 「日曜日、島が見える。この島にウミガメがいるかどうか探すため午後1時に2隻のボートを降ろす。島には遭難して疲れ果てた5名の者がいるのを発見し、本船に収容した。飢えを訴えているほか彼らから何事も理解することは出来なかった。1941年6月28日 「午後1時に島に上陸し彼らが島に置いてきた衣服などをとりに行く。」

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1843年5月6日 ジョン・ハウランド号は母港のニューベッドフォード港に帰港。万次郎を救助してから2年、出航してから4年が過ぎていた。ちなみに万次郎は16歳。ホイットフィールド船長は家族と共に万次郎を教会に連れていくが、白人以外は入れないと言われ別の教会に行くことにした。船長の家から1キロほど離れたところにあるユニタリアン教会で、現在はノースウェスト海洋学専門養成所学院として世界中から学生を集めている。

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万次郎が通った「オールド・ストーン・スクール」。日本の寺子屋のような1部屋だけの教室で下級生も上級生も一緒になって、読み、書きを学んだ。万次郎は正真正銘の留学生第一号。

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1846年5月 ジョン・ハウランド号の船員だったアイラ・デービスという人が、フランクリン号という捕鯨船の船長として日本方面に行くという事で万次郎は誘われた。万次郎は躊躇したが船長婦人に薦められて出航。ボストンに寄り太平洋で捕鯨中にデービス船長が精神病になり、フィリピンのマニラで下船。新船長の選挙で、万次郎はキーエンという航海士と同票数を獲得したが、年長のキーエンに譲り副船長になった。3年4か月の航海でベッドフォードに帰港。世界に通じる航海士となった万次郎は若干20歳。

1849年11月27日 日本に帰国のための資金を稼ぐため、ホイットフィールドの船長の許可を得てゴールドラッシュに沸く西海岸ピストル2丁をもって向かう。サンフランシスコからボートで1日がかりでサクラメントに到着、5日間かけて険しい山を超え金山に入り70日間働き700ドルを稼いだ。 当時の水夫の月給は17ドルだった。帰国のための資金を調達できた万次郎は、ハワイに向けてサンフランシスコを出航。ホノルルで漂流した仲間と再会し、すでに他界した1名、結婚した1名を残し3名で帰国の計画を考える。鎖国中の日本に外国船は近寄れないので、当時薩摩藩下の独立国琉球王国にいったんボートで上陸するという事にした。ボートをアドベンチャー号と名をつけ、捕鯨船サラボイド号で出航。(写真 当時のジョン万次郎の面影)

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1851年1月3日 沖縄の海岸から10キロメートル離れたところに到着、アドベンチャー号で魔文仁の海岸に上陸した。遭難してから10年、万次郎24歳。帰ったら死刑になる危険性もあったが、たとえ死罪になってもアメリカで見たことを日本に伝えたかった。万次郎の取調べは琉球で始まり、長崎で9か月間、合計で2年半もかかった。薩摩藩主の島津斉彬は積極的に西洋文化を取り入れ富国強兵を目指していて、万次郎とは酒を酌み交わして歓談することもあった。

1853年6月3日 ペリー率いる黒船が浦賀に来航。開国を迫る米国大統領の親書を手渡し「来年回答をもらいに来る」といったん去った。当時日本でアメリカ事情を知る者は万次郎のみで、幕府は万次郎を江戸に呼び寄せた。

1853年8月30日 江戸に着き幕府直参となり、中濱の姓を名乗るようになる。

1854年3月3日 ペリー提督は親書の回答を求め再び来航。 日米和親条約が締結された。条約の主な内容に万次郎が唱えた捕鯨船の救済が条件に含まれた。

(写真は1954年3月8日 横浜で行われた日本人アメリカ人応接の様子)

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アメリカ第30代大統領クーリッジは「ジョンマン」は「アメリカ最初の大使を日本に送ったことに等しい。なぜならば24歳のジョンマンが我が国の本当の姿を当時の日本の首脳部に理解させていたからこそ、ペリーはあのような友好的な扱いを受けることができたのである」と述べている。

1860年1月 日米修好通商条約の批准のため遣米使節団が乗ったポータハン号の護衛艦「咸臨丸」でサンフランシスコに渡る。館長の勝海舟をはじめ将校は自分たちの力だけで航海したいと考えていたが、横浜で難破しアメリカ帰国を望んでいたブルック大尉ほか11名が乗船することになった。日本人将校が船酔いで参っている中でアメリカ人水夫は大きな働きをした。ブルック大尉は万次郎の働きに大いに関心したと日記に書いた。

1870年 万次郎は普仏戦争の視察のためヨーロッパへの任務に就く。一行くは途中ニューヨークに立ち寄り1日だけ第二の故郷であるフェアへブンを訪ねる許可をもらい、20年ぶりにホイットフィールド船長と再会。船長65歳、万次郎43歳の時だった。 再会したうれしさははかり知れないが、最後のの再会となった。

 

時代は大きく変わって、1933年6月8日 フランクリン・D・ルーズベルト(FDR)が、ジョン万次郎の長男の東一郎氏に送った手紙がある。フェアへブンにはフランクリン・D・ルーズべルトの祖父のデラノアの家があり、「・・幼い頃に祖父が良くあなたのお父様(ジョン万次郎)のことを話していた、もし合衆国にいらしたら、立ち寄って欲しい・・」といった内容。

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 その家は、現在はB&Bを営んでいて今も残っています。大統領の現職中もここで夏を過ごしたことから、サマーホワイトハウスとも呼ばれている。

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ペリーの黒船来航の12年前に突然の嵐で船が難破し、捕鯨船に助けられ10年前にアメリカに渡り教育を受け、2年前に日本に帰国し幕府の直参となるという、偶然にしては絶妙なタイミングには驚きです。ジョン万次郎の明晰で快活な素養もあると思いますが、彼の勇気と行動力それに応えたホイットフィールド船長の寛容さ、そしてその友好関係を今も支えているフェアへブン、土佐清水の方々の御努力には脱帽です。機会があれば、是非フェアへブンを訪れてみてはいかでしょうか。

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【参照サイト】
Whitfield-Manjiro Friendship Society
11 Cherry Street, Fairhaven, MA 02719
http://manjiro1.tripod.com/

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関 克久

関 克久

Sales & Marketing Div., GM at JTB USA Inc.,
旅行のプロデュースに携わって30年。趣味は写真。「百聞は一旅に如かず」旅に出て初めてわかるのは、実は故郷の良さなのかも知れません。旅は百薬の長がモットーです。
関 克久

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