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旅のエスプリ

ブルックリン・ブリッジ建設の陰に日本のプリンス? 名門ラトガースに学んだ幕末の獅子たち

目からウロコのトラベル・コラム「旅のエスプリ」

旅のエスプリ Vol. 7

ブルックリン・ブリッジ建設の陰に日本のプリンス?
名門ラトガースに学んだ幕末の獅子たち

ニューヨークのマンハッタン南端付近とブルックリンを結ぶブルックリン・ブリッジは、数多くの映画にも登場し、世界的に有名な建築物です。長さは1834メートル。自動車の往来だけでなく、週末ともなれば、ウォーキングやジョギングのルートとして利用する人も多く、ニューヨーカーの生活に深いかかわりがある橋と言えます。
ブルックリン・ブリッジ(ブルックリン側からの眺め)
このブルックリン・ブリッジはアメリカで最古の吊り橋の一つであり、鋼鉄ワイヤー製としては世界初の吊り橋でもあります。完成は今から130年前の1883年。ドイツ系移民のジョン・E・ローブリングの設計によりプロジェクトが始動しましたが、彼は1869年に病死してしまいます。

跡を継いだのが、息子のワシントン・ローブリング。そして、彼の下で働いたアシスタント・エンジニアのうちの一人に、日本人技師の松平忠厚がいたのです。

松平という名前からもわかるように、彼は信州上田藩の最後の藩主、松平忠礼の弟でした。1872年、父の忠固が亡くなると、忠礼と忠厚の兄弟は開国派だった父の意志を継いで、アメリカ、ニュージャージー州ブランズウィックのラトガース大学に留学します。その頃、既に同学には十数名の日本人留学生が学んでおり、その中には勝海舟や岩倉具視の子息もいました。

ラトガース大学はアメリカでは12番目に古い歴史ある大学で、幕末の1867年から少なくとも40人の日本人が留学したと言われています。しかし、志半ばにして結核に倒れる者が後を絶ちませんでした。ブランズウィックの墓地内の日本人留学生の墓石からは、彼らの死亡年齢が10代から20代前半だったことがわかります。
[左]ラトガース大学に隣接するウィロー・グローブ墓地にある日本人留学生の墓碑/[右上]墓碑の側面に刻まれた文字は判読が難しくなりつつある/[右下]墓碑の文字が判読が難しくなっているため、新たに建てられた墓碑
忠厚は1874年にハーバード大学に移り、1878年、兄弟で共に帰国の時期を迎えます。しかし、兄の忠礼の了解を得ることなく、忠厚はアメリカに残ることを選択するのです。当時、アメリカ人女性と交際中だった忠厚は帰国の際に突然姿をくらませてしまいました。相手の女性は、ブランズウィック出身のカリー・サンプソンでした。

日本人初の土木技師、息子は日系人初の市長

忠厚は1879年1月にニューヨークの建設会社に入社し、同年8月にはカリーと結婚、その間に新しい測量器も開発しました。1880年1月にはマンハッタン高架鉄道会社に入社、当時始まっていたブルックリン・ブリッジのプロジェクトに、日本人初の土木技師として携わることになります。

同時に、複雑な計算が不要で短時間で正確な測量を可能にする、忠厚発明による測量器は、ブルックリン・ブリッジの完成におおいに役立ったと言われています。1880年2月29日付のニューヨーク・デイリー・トリビューン紙には、彼が発明した三角測量の方法が過去になかった画期的なものであるとの記事が掲載されました。

ただし、発明した測量器の特許を取得しなかったために、その後、経済的に恵まれることはありませんでした。結果的に橋の完成を待たずに、盛んだった西部の開発ブームで技師を必要としていたユニオンパシフィック鉄道に転職、アメリカ人の妻と幼い息子と共にコロラドに移住しました。

そして、1888年デンバーで37歳の若さで亡くなるまで一度も帰国を果たすことなく、アメリカの土となったのです。忠厚は前述のように兄に逆らってアメリカに残ったため、許しと経済的援助を請うも最後まで日本の家族からは拒絶されたままでした。

忠厚のお墓はデンバーのリバーサイド墓地にあり、同墓地内に1952年には「松平忠厚之碑」も建立されています。
デンバー、リバーサイド墓地:[左]の17番地区にある松平忠厚の碑/[右]26番地区にある松平忠厚の墓碑
世が世ならプリンスだった忠厚は、家族から断絶されながらも、しっかりと自らの能力と努力でアメリカに足跡を残しました。たとえば、2000年度センサスにおけるコロラド州の日系人の人口は、1万9千人を数えています。その多くが、忠厚が活躍した時代に鉄道労働者として日本から移民してきた人々の子孫である可能性が高いと言われています。現在では「コロラド州を切り開いたパイオニア」の一人として、日系人だけでなくアメリカ人からも忠厚の功績は称えられています。

Elected Mayor in 1927, again 1943  Kinjiro Matsudairaまた、忠厚がカリーとの間にもうけた次男の欽次郎は、メリーランド州エドモンストンで初の日系人市長に就任しました。

しかし、何と言っても、信州上田藩のプリンスがアメリカに残した最大の足跡は、今も当時のままの姿を留めるブルックリン・ブリッジだと言えるでしょう。

尚、松平忠厚とカリー夫人については、南カリフォルニア在住の作家、飯沼信子さんの著書「野口英世とメリー・ダージス 明治・大正 偉人たちの国際結婚(水曜社刊)」の中で詳しく紹介されています。是非ご一読ください。

【参照サイト】
Willow Grove Cemetary
60 Livingston Avenue
New Brunswick, NJ 08901
http://www.willowgrove.nbfpl.org/

Riverside Cemetary
5201 Brighton Blvd
Denver, CO 80216
http://friendsofriversidecemetery.org/

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関 克久

関 克久

Sales & Marketing Div., GM at JTB USA Inc.,
旅行のプロデュースに携わって30年。趣味は写真。「百聞は一旅に如かず」旅に出て初めてわかるのは、実は故郷の良さなのかも知れません。旅は百薬の長がモットーです。
関 克久

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