旅のエスプリ Vol. 10 |
1922年、ニューヨークのマンハッタンにあるセントパトリック教会で、ある日本人の葬儀が600名もの参列者を集めて行われていました。5番街に面したセントパトリック教会はロックフェラーセンターの反対側に位置するニューヨークのランドマーク的存在だというだけでなく、その壮麗なゴシック様式でも知られる全米最大規模のカトリック教会です。
この由緒ある教会の大聖堂で送られた人物は、当時、アメリカの社交界、政界、科学界、経済界でも一身に尊敬を集めていた化学者であり起業家の高峰譲吉、その人でした。葬儀では、妻のキャロラインの提案により、君が代が大合唱されました。セントパトリック教会で日本人の葬儀が行われたのも初めてなら、君が代が歌われたのもまた初めての出来事でした。
翌日のニューヨーク・ヘラルド紙は「日本は偉大な国民の1人を喪った。アメリカは得難き友人を、世界は最高の化学者を喪った」と、その死を悼みました。
高峰譲吉にはいくつかの顔があります。まずは、天才化学者としての顔。1854年、現在の富山県高岡市に、漢方医、精一と造り酒屋の娘、幸の間に生まれた譲吉は、8歳で加賀藩の藩校である明倫堂への入学を許可されます。さらに12歳で長崎に留学して英語を学び、後の東京大学工学部応用化学科を首席で卒業するのです。
1880年、スコットランド、グラスゴーに留学した譲吉は、現地で本場のスコッチウィスキーに深い関心を覚えます。母の実家の家業から酒の醸造に多少なりとも知識があったために、ウィスキーをモルトからでなく、澱粉をより効率的に分解できる米糀を使って製造する手法を考案します。
一旦、日本へ帰国し、農商務省に入省。そして1884年には、ニューオーリンズで開催された万国工業博覧会に日本政府より事務官として派遣されるのです。そのニューオーリンズで待っていた運命の人が、アメリカ南部の令嬢、キャロライン・ヒッチでした。
キャロラインと譲吉を引き合わせたのは、キャロラインの母親だったそうです。母親には、東洋の小国からやって来た事務官の中に、将来の成功を見通す力があったのかもしれません。
1887年には二人は結婚、しばらく日本で生活します。キャロラインはまず膝を折って正座することを覚え、自分で着物を着ることまでできるようになりました。日本での生活にも慣れてきた頃、1890年には譲吉が発明したウィスキー製法に目をつけたシカゴのウィスキー会社によって、一家はアメリカに渡ります。
ところが、アメリカ生活は苦難の幕開けとなりました。それまでモルトを使用してウィスキーを醸造していた会社や職人たちが、譲吉の製法に反対を唱え、暗殺まで企てたのです。譲吉の住居兼研究所は、反対派によって襲われ、全焼してしまいます。辛くも一命を取り留めた譲吉でしたが、新製法の実現の断念に追い込まれました。
しかし、天才化学者は次なる発明で全米を席巻します。それが植物から抽出したジアスターゼの発見でした。消化薬「タカジアスターゼ」として商品化され、大人気薬品となるのです(1913年、譲吉は日本に三共を設立し、アメリカにいながらにして初代社長に就任します。三共は三共胃腸薬が看板商品の薬品会社で後の第一三共)。
1900年、家畜の内臓物から、今度はアドレナリンの抽出とその結晶化に成功します。アドレナリンは止血剤としての役割から、その後の医学界の発展に大いに貢献することになりました。
そして、ここから譲吉の次の顔が登場してきます。アドレナリンの特許取得により巨万の富を得るようになった結果、彼はまずマンハッタンのリバーサイドに純日本風の豪邸を建築、さらにニューヨーク州メルーワルドにも敷地面積245万坪という別邸を完成させます。
この二つの豪邸を舞台に、譲吉は民間外交を繰り広げるのです。目的は愛する日本を支持するアメリカ人を少しでも増やすことでした。そして、民間大使、譲吉の傍らには常にキャロラインの姿がありました。
1912年、譲吉は、後世に渡るまで、人々の心に残る贈り物をアメリカに贈呈します。それはワシントンDCのポトマック河畔の3千本の桜です。東京市からの寄贈とされている桜ですが、その裏には譲吉の計り知れぬ尽力がありました。また、ワシントンDCだけでなく、ニューヨークにも譲吉が寄付した2100本の桜の木々が植えられています。
こうして、日米を繋ぐ架け橋として奔走した譲吉ですが、アメリカを拠点に活動を続けながらも常に心は母国に寄り添っていました。そして1922年、日本で余生を過ごそうとしていた矢先、日本政府より参加要請されたワシントン会議の1カ月後、譲吉は帰らぬ人となりました。
天才化学者の日本への愛情を誰よりも理解していたキャロラインは、葬儀に参列した日本人たちに「君が代」で夫を送ってほしいと呼びかけたのです。
ニューヨークでは、是非、さくらパークやセントパトリック教会に立ち寄り、幕末から大正にかけて日米を股にかけて活躍した高峰譲吉に思いを馳せてみてください。
【参考文献】
飯沼信子著「野口英世とメリー・ダージス」
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