旅のエスプリ Vol. 42 |
「排日移民法」という1924年に米国で施行された法律のことを聞いたことがあるかもしれませんね。この法律は、それまで無制限に外国から米国に流入していた移民の出身国比率を調整するために、既に在住している移民の出身国に対して新規の移民を2%しか受け入れないと定めたものでした。これにより、日本からアメリカに新しく渡ってくることが実質的には不可能になり、「日本人を排除する」という意味の日本語で呼称されるようになりました。
時を同じくして、日本が中国の東北地方に進出し、支配力を強めていました。中国進出を視野に入れていたアメリカにとっては、非常に好ましくない動きを日本が取ったこと、また移民排除の法律の件も含めて、両国の関係はきわめて緊張を伴ったものになっていました。
両国はそのまま険悪な状況に突入していったと思いますか? いいえ、アメリカ側が実に友好的な策を取り、日本に友情の証を差し出したのです。その証とは、1万2千体を超える「フレンドシップドール」と名付けられた青い目の人形の進呈でした。
アメリカ側は日本に雛祭りの風習があることを知り、1927年の3月に合わせて、それぞれの人形に名前をつけ、さらにパスポートまで添えて日本に送り出しました。そして、日本に上陸した人形使節たちは、各都道府県の幼稚園や小学校に設置され、できるだけ多くの子供たちに「アメリカの友情の証」が行き渡るように配慮されました。
このプレゼントに感激した日本側は、今度はその謝礼の証として、日本伝統の市松人形を職人に作らせ、各都道府県の代表、さらに植民地の代表人形も含め、全部で58体をアメリカに送り出しました。アメリカからは1万2千体送られたのに、日本からは58体ではいかにもバランスが取れないとお思いでしょう?
しかし、市松人形を1体作成するには、当時のお金で350円が必要でした。これを現在の価値に換算すると実に280万円にも相当します。まさに「巧の技の結晶」とも言える貴重なものだったのです。
その資金は、日本の子供たちが1銭ずつ募金し、最後は皇后が1000円を提供することで集められました。出来上がった90センチほどの58体の人形は「答礼人形(贈り物への答礼)」と呼ばれ、絹の着物をまとい、日本の伝統文化を表現するためにミニチュアの茶道の道具や楽器なども一緒に梱包されました。そして、出発に当たっては、各都道府県の代表小学校で、送別式が開催されました。
三重県津市尋常小学校では総代の伊藤静子さんが、人形に添える手紙を次のように書いています 。
「三重子さん(人形の愛称)、『行ってらっしゃい。さようなら、お体を大事にして病気なんかしないようにしなさいよ』と一同がさけんだときには、私どもの目には涙がやどっていました。どうぞお使いの三重子さんを私どもと同じようにおかわいがりください。お互いに手を取り合いましょう。アメリカの国と日本の国とは、他国からうらやまれるほどになりましょう」
まさに人形が日本国民の平和への願いを担っていたのです。そして、アメリカ側に渡った答礼人形は、各地のホテルで盛大な歓迎会を催され、全米を周遊してから、各地の博物館などの施設に落ち着きました。
しかし、1941年、日本とアメリカは戦争に突入します。日本は敵国からの人形だとして、戦時中に「青い目の人形」を処分しようとしました。しかし、一部の人々が大切に保管し334体が現存、その中の多くが各地の小学校や博物館で展示されています。
一方のアメリカ側に渡った答礼人形は47体の現存が確認されています。アメリかのどこに行けばどの県出身の人形が保存されているか一覧にしたウェブサイトもあり、それによれば、ミス岩手はアラバマ州バーミンガムの公立図書館、ミス鹿児島はアリゾナ州フェニックス歴史博物館、ミス大阪府はオハイオ歴史協会の所蔵などと紹介されています。ちなみにカリフォルニア州ロサンゼルス市の自然歴史博物館には「ミス台湾(当時、台湾は日本の統治下にあった)」が保存されています。
多くの答礼人形は、日本側に修復のために里帰りを果たしています。また、東京の浅草橋にある老舗人形店の『吉徳』は、当主が三代にわたって、答礼人形に携わっていることで知られます。10世の山田徳兵衛が、1927年当時の製作の指揮をとり、11世が里帰りした人形の修復の監修を務め、さらに現社長の12世山田徳兵衛も、引き続き、その修復に参画しているのです。
目を再びアメリカに転じ、ロサンゼルス近郊の答礼人形に縁の場所を是非ご紹介させてください。それはダウンタウンから車で1時間半ほどの場所にあるリバーサイドのザ・ミッション・イン・ホテル・アンド・スパです。
1876年に開業した同ホテルは、ドーム、鐘楼、礼拝堂、時計台などミッションスタイルの趣ある雰囲気が演出され、格式も伝わってきます。10人の大統領も訪れたということで、バーには「プレジデンシャルラウンジ」という名前が付いています。あのニクソン大統領が結婚式を挙げ、レーガン大統領も新婚旅行に訪れたという有名なホテルです。
このホテルこそ、答礼人形がアメリカに上陸した際のレセプション会場の一つでした。ロサンゼルス界隈の名士が招待され、華やかな宴が繰り広げられやことでしょう。往時の面影を今に残すミッション・インを訪ね、目をつぶれば、その時の様子がまぶたの裏に映し出されるような気さえします。国と国、人と人の関係でも、憎しみには憎しみで返すのではなく、友情の手を差し伸べることこそ最善の解決策ということを教えてくれるエピソードですね。
【参照サイト】
アメリカ側の答礼人形の保管場所の参考サイト
http://wgordon.web.wesleyan.edu/dolls/japanese/locations/
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